鼠の騙し討ち

太刀打できますん

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「きっと、澄みわたる朝色よりも、」の感想。ネタバレ全開で。


言語ゲームという呪いにがんじがらめにされていると多くの人が言っており、現に笹丸も四君子という輪の中で自分が紛い物だと感じてこじらせているわけだけど。
まあ強迫観念で動いているとも思うが、彼らが自分の名前や四君子や青姉といった名称を大事にするのは、それが他人から貰ったものだからか。

この世界では皆が優しく、悲劇が起ころうが憎悪があろうが、すべての人間の根源に優しさがあるものとして書かれている。
優しさとは本来人が持っているものであり、他人との関わりあいでそれらを救い出してくれるのだと笹丸は言う。
何も優しさだけが救い出されるわけでもなく、他人との関わりによって、その人が元来持っているものを見つけ出してくれるということかな。
そして、その他人とのかかわりというのが言葉であり、言霊という名から実体を生み出す行為。

所詮人間同士の対話は、「自分が見た(認識している)相手」とコミュニケーションするほかないわけだけど、今作ではそれを明確にキャラクターへ意識させ、その上で、他人の言葉や自分の言葉がどのように作用するかを彼らは模索している。

名前を呼ぶ呼ばれるという行為は正に他人との関わりあいの中でもっともウェイトを占めている。
その関わり(行為)があるからこそ、彼らが元々持っていたものが浮き彫りになっていくのではないか。
名前によって宿命づけられているのではなく、名づけられたからこそ、そういった人生を歩むことが、または選ぶことが出来るのではないか。

それらに積み重なった上に立っている中で、幸福な時間があったからこそ、名前によって見つけられた、または救い出された自己と、それに関わる人物と起こった出来事に感謝し、宝石のように名前というものを大事にしている。

そして、名づける、名づけられるという行為は、他人を定義付け縛り上げるため相食む痛みも付随する。御家のことや石女と呼ばれることなどなど、複数視点で描かれる致命的な認識のズレや、曖昧さを許さない根元にある形式的なものによって彼らは空回りし、出来ないことによって閉塞されていく。

だからこそ、この作品は一つの結末しかなかったのかなぁと。しかし彼らは痛みを否定することなく、それらも含めて自己を象っていると認めている。
人の和と輪を尊び、連なりの先にいる今を誇っているため、繰り返しを否定する。
そこにあるのは関係性、長い歴史の中で連綿と受け継がれてきた他人との言葉であり、それらはただ与えられるものではなく、応えられるものとして許されている。
それを知っているからこそ、優しさを呪い、ただ失った秋を待っている若に対して、笹丸は筆を渡すことが出来たんだろう。

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あきねずみ

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