鼠の騙し討ち

太刀打できますん

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 広いベットの上で仰向けに寝転び、薄暗い天井の灯りをぼんやりと眺めていた。空調が低い唸り声を上げてはいるが、ホテルの一室にはかび臭さが染み込んでいた。左を見るとスーツ姿の男が背を向け同じベットに座っている。本でも読んでいるのだろう、紙が擦れる音が聞こえた。反対側に視線を移すと女性が二人、椅子に向かい合って座っていた。
「うん。アナタ、化粧栄えする顔よね」
 呟いた女性の顔は西洋系で彫が深く、澄んだエメラルドグリーンの瞳をしていた。無表情に、そして迷い無く筆を動かす仕草はどこか静謐な陶器を思い起こさせる。オレンジに流れる髪が、部屋の照明と相まってうっすらと光りを放っていた。
「それは……私の顔って元々地味ですから」
 対面に座り、化粧筆の成すがままにされているのは小さな少女だ。チェック柄とワンピースとオフショルダーのカーデガンに身を包み、歳相応の愛らしさを出しているように見える。今日は髪留めで前髪を上げているため、小ぶりなおでこが覗いていた。こちらに来てから洗髪料を変えたためか、痛んだ白い髪も艶やかに保たれている。
「後ろ向きね。けど、化粧をする事で新しい自分の一面を見つけた気にならない?」
「確かに、いつもよりウキウキして、笑っているような気がして、ほっぺたが痛いです」
「でしょう? やっぱり、女の子だもの」
「そうですけど、やっぱりお化粧を落としたとき鏡を見ると、なんだか、がっかりしちゃいます」
「どうして? これが本当の自分よね、とか考えちゃう?」
「はい……」
「そんなこと無いわよ。メイクをした時のアナタも、アナタ自身。メイクを落としたアナタも、アナタ自身。オシャレな服を着たアナタも、裸になったアナタも、毛が生えていなくても、人を殺しても、逃げ出しても、誰かを愛しても、それが、アナタ自身に成り代わるのよ。それを全て無くしたとしても、創り上げていけば、それがあなた自身になるわ」
(生えてないんだ……)
 どうでもいい部分だけ、聞き耳を立てて寝転んでいた少年は頭に深く刻み込んでいた。
「それにね、全て失くすことなんて無理なのよ。体が覚えた事、他人がアナタを見て覚えた事は、消す事なんて出来ないわ。一度でも可愛くなったら、可愛いアナタは存在するのよ」
「でも、それが未来まで続いていく保障なんてありませんよね。続ける事は難しいけど、止める事って、びっくりするくらい簡単じゃないですか」
「……うーん」
 珍しく、オレンジ色の女性が唸り声を上げている。ネガティブすぎる少女を、どう諭そうか悩んでいるのだろう。
「続ける事が難しいって言うけど、続けていくしかないんじゃない? ありのままの自分なんて、そんなの何も無いのと同じよ。言葉と表情を創って、その他にアプローチした先の反応に自分がいるだけなんだから。反応が無くても、試行錯誤の材料になるでしょ」
「根本的な感情とかを無視していませんか?」
「そんなもの無くても、意外と何とかなるものよ」
 女性のお喋りと支度。時間を盛んに使用する要素が、二つ揃った時に放つ相乗効果は抜群だ。手持ち無沙汰に、少年はベットに腰掛けた男へ話しかけた。
「岸峰さん、何か俺を楽しませることやってください」
「ベラドンナみたいな事を言うな。毒されているぞ、オマエ」
 文字通り、身も心も毒されている日向悠生は二の句が告げられない。絶望が日向の肩を気さくに叩き、満面の笑顔で親指を下に向けている。
「そうだな、奴にも見せたことがあるのだが、異能で精製した弾丸を縦に積み上げる芸でも見たいか?」
 振り返った無精髭の岸峰虎太郎は、顔に深い皺を目立たせ笑っていた。
「美しく積み上げた先に一瞬で爆発させる様子は何かこう、背筋を見えない手でなぞられている様な快感があるぞ。そうでなくとも、爆破は一種のエクスタシーが宿っている」
「それベラドンナに見せたんスか。彼女はその時なんて?」
「積み上げる前に蹴り飛ばされたな。俺はいたって真剣だったのだが、奴はゴミでも見るような目で蹴りを入れてきた」
「それは、ええと、うん。シュールっすね」
 堂々と「馬鹿だろ二人とも」などとは言えないため、横文字を使用してお茶を濁した。
 しかし、自身の能力をこうもあけすけに話すとはどうしたことか。先の会話から、岸峰は精製した弾丸を銃身で撃たなくとも爆破出来る事がわかってしまった。その程度の情報が流れたところで、充分対応出来る能力である事は分かるが。
 下らないやり取りに気が緩みすぎている。
「それにしても、こんなわけの分からない力を許容し、したり顔で軍隊などと言っている現状は滑稽だと思わないか?」
「まあクリーチャーや異能者の謎が解明される前に、一般的に知られすぎたってのもあるんじゃないスかね。分けわかんないモンなら、分かる範囲に押し込めないと」
「その謎は未だ解明されず、だがな」
「それを今あんた達が究明している。今までで分かった事ってあるんスか? クリーチャーや異能者について」
「そうだな、専門家が言っている様に別次元の宇宙からの贈り物かもしれないし、怪しげな生体実験の成果で人体に影響が出たのかもしれない。はたまた未知のウイルスか。なぜ異核やクリーチャーが存在している事は分からないが、クリーチャーは異能者の能力だと俺たちは考えている」
「それも専門家が言ってましたよね。誰かの異核兵装がクリーチャーを召喚する能力を持っている、とか」
「いやそうではない。異能者は誰しも『力場』を発生させ、一部の者は異核兵装を持ち特殊な能力を使うが、それと同様にクリーチャーへと変貌する能力があるのではないかと」
「異核には三番目の能力があるかもしれないって?」
「仮説でしかないがな。今はその線を疑って行動を起こしていると言うだけだ」
「えっと、もちろん、何か根拠とか動機とかあるわけですよね?」
「そうだな、先ほど爆破はエスクタシーが宿っていると言ったが、オマエはどう思う?」
「はあ、いや別になんとも」
「だろうな。お前がそう思うのと同時に、俺と同じように考える人種もいるだろうが、俺はそいつらよりも自動的に思考している。それは、これが俺固有の能力だからだ」
「ああ、"異能は人の欲望から成る"って誰かが何かで言ってましたね」
「そうだ。異核兵装によって引き起こされる欲望の発露が異能なのではないかと。そして、それが人としての器を保つ事が出来なくなった時に、クリーチャーへと変貌する。その引き金が、対象が死んだ時に起こる物と思われる。怨念というやつだな。理性やしがらみ、肉体という檻から解き放たれた魂という状態が、欲望を具現化する異核を持っていた場合にクリーチャーが立ち現れる」
「幽霊とか輪廻転生? なんかオカルト、ってか異能とかも充分オカルトか」
「ああ、根拠なんぞは無い。この考えも、異核とクリーチャーが同じように灰になって消える、ならば同一の物として考える事は出来ないか、程度のことから着想したものだ」
「もしかして、そんな推論ばっかで動いてるんスか? 気が遠くなりそうだ」
「未知への踏破は容易くない。その程度で根を上げていては、真実への扉はいつまで経っても見えてこないさ。それに今回、俺達は力強いカードを手に入れた。その内に面白いものが見れる」
 これで話はお仕舞いとばかりに岸峰がベットから腰を上げる。背後に人の気配に振り返ると、星名ほのかとベラドンナが並んでこちらの様子を見ていた。
「さあ、おめかしも終わった事だし、折角だからデートでもしてきたらどうかしらん?」
 肩を押された星名が一歩前に出た。紅を引いた頬と唇が肌の量感と相まって熟した果実を思わせる。元々肌理の細かく青白い現実味を失くす肌だったが、ファンデーションを乗せた今は生気に満ちているように見え清々しい。恥ずかしげに俯く星名だったが、覗く瞳のラインが期待を求める表情を明確に伝えている。普段のどことなく煤けて神秘的に見える印象とは違い、たおやかで精彩な花が咲く様子に思わず視線を奪われていた。
「ペドフィリアだな君は! マサノリと同じ目をしている!」
 星名に大変失礼な事を言いながら、ベラドンナが目を見開き日向を糾弾している。西洋風の顔立ちが唐突に表情を変化させると空恐ろしいものがあった。
「マサノリって誰だよそれ。ってか出歩いても大丈夫なんスか?」
 現在、日向達は逃亡中の身だ。学校での星名奪還から数日が経とうとしているが、未だ二人は陽の光りを浴びておらず窮屈な思いをしている。外出は願ったり叶ったりだが、現状を思えばおいそれと外へ顔を出す事を躊躇ってしまう。
「結構遠いところまで来たものだからね、そこまで神経質にならなくてもちょっとの間なら大丈夫よ。たまには息抜きも必要でしょ」
「はあ。じゃあ、お言葉に甘えて。ちょっと出てきます」
 七分のパーカーを羽織り、フードを目深に被る。眼帯や二の腕に巻かれた包帯の白は少々目立っていた。足先にサンダルを引っかけ、ベットから腰を上げると星名が傍まで寄り添ってきた。
「お散歩なんて、久しぶりだね」
 ふっくらとした笑みを浮かべる星名に、胸が締め付けられる。彼女が外を何の目的も無く外を歩けるのは、いつ以来だろうか。
「それじゃあ私達は、海外逃亡の段取りを取り付けてくるから。そうね、夕方頃に戻ってきてくれたら構わないわ」
 時計を見ると、針は一時を刺していた。
「もし、何かが起こって合流できない場合は、この間伝えた手段で市外に脱出して連絡を待っていてね。あと念のため、これを持っていって頂戴」
 ベラドンナからピルケースを投げ渡される。ベラドンナが自身の能力で精製した、例の麻薬だろう。
 それだけ伝え、ベラドンナと岸峰はホテルの一室から出て行った。


■    ■    ■


 人の多いところは避けた方が懸命だろう。落ち着いた、暗い空間であれば映画を見るのが妥当と決め日向は街を歩いていた。
「はずが、どうしてこうなった」
「ん~。春風が気持ちいいね。なんだかこの時期って、陽の光りが強くなるから、景色が力強いよね」
 ゆったりと回るコーヒーカップに、隣に座った星名が気持ちよさげに目を細めている。重ねた手の柔らかさに、日向はここが遊園地だろうが戦場だろうがどうでもよくなっていた。
「あー。こんなに呑気なのも今だけだろうし、別に良っかなー」
「私は、こういったのがずっと続いてほしいかな」
 握った手の平に力が込められた。まだ先は見えないが、彼女の為に、彼女が安心して暮らすことの出来る環境を整えなければならない。そのためだけに、自分は存在しているのだという自覚が今の日向にはあった。
「大丈夫。なんとかするさ。心配しないで、俺に任せてくれよ」
 同じテーブルを、他のカップが様々な速度で周っている。繋いだ手を中心とした空間以外が、別の世界の出来事のように見えていた。
 後数日で日向達は海の向こうへと旅立つ。そこでベラドンナによる星名の研究が始まるわけだが、星名が自身の能力を自在に操れるようになればそれまでだ。ベラドンナを欺き、日向は星名を連れて誰の手にも届かない場所へ行く算段だった。
「なあ、ほのかは将来さ、どっかで暮らすとしたら、どんなとこがいいかな?」
「えっ? そうだなぁ……。うん。海の見えるレストランでウエイトレスさんがしたいな。それでね、悠くんがシェフなの」
「俺、料理はからっきしなんだけど」
 確か、以前見たドラマで海の見えるレストランが舞台になった恋物語を嬉しそうに話していた。しかし、彼女は味覚が生まれつき壊れているはずだ。
「じゃあウエイターさんだね。それでね、悠くんのお父さんとお母さんをご招待するの」
 背筋に冷たいものが流れる。そんな未来がやってこないことなど分かってはいる。そもそも、この話題も夢想の類だ。彼女が暗に伝えたい事を、日向は悟ってしまった。
「ねえ、悠くんは寂しくない?」
 学校での脱出から避け続けていた話題の続きを、今ここで行うつもりなのだろう。何か逃げるような話題は無いものかと日向は頭をめぐらせたが、彼女の言葉は止まらなかった。
「私はね、寂しかったの。お母さんとあんまり仲がよくなくってね、避けられて。一緒にお外に出かけたのだって、一度きりの散歩だけだった。それも、お母さんはズンズン進んで行っちゃってね、追いかけるのが大変だったな。追いついちゃうと、やっぱり嫌な顔されちゃったし」
 ベラドンナから聞いたとおりの話だ。星名とその母親は不仲であったらしい。星名はやんわりと表現しているが、実態は暴力の類が含まれていることも知っている。そして、ある時期を境にその関係が倒錯的に改善されることも。
「だから、ね。私はお母さんに、自分の力を使ったんだ。寂しかったから。それだけで」
 自我への矯正を行い、星名の望むように母親を作り変えた。
「もう知ってるよね? 私、人の心を弄ぶんだよ」
 今にも泣き出しそうな顔で、彼女が俯いている。繋いだ手が急に冷たくなっていく。望まない話題だが、彼女の決死の告白を避けては、彼女のために逃げ出した事にすら目を背ける事になる。指を強く握り返すと、彼女は電流が走ったように身体を震わせた。
「私、自分の気持ちをお母さんに押し付けて、私に優しくなったお母さんを見て、それで愛されているって勘違いしちゃったんだ。お人形さん遊びみたいなものだったのにね。その所為で、お母さんを……だから」
 彼女が、日向を見上げる。その瞳は粛然と張り詰め、日向は気圧されるほどだった。
「今度こそ、上手にやってみせるって思ったの」
 彼女にかける言葉が見当たらなかった。「今度こそ」それは、日向に向けられた言葉だろう。日向が抱く、彼女へのこの気持ちが全て―――
「罪は、償わなくちゃいけないの。間違ったものは、正さなきゃ駄目なんだよ。私はたくさんの人を傷つけた。逃げるなんて卑怯だよ。私は……人を殺したの」
「違う。そうじゃない。ほのかは、殺したくて殺したわけじゃないだろ。その力が原因なんだ。まずは、……」
 頭痛が始まった。おぼろげだが、この頭痛の正体が日向は分かってきている。恐らく、星名に与えられた矯正を撥ね退けようとする時にかかる負荷だ。彼女は愛される事を放棄してでも、自分の犯したものへ目を向けている。その意に反し、彼女を生かす道をとっているため頭を締め付ける矯正が働いているのだろう。矯正を無視して行動している事に日向が気が付いていることも、彼女は分かっているのだろう。だからこそ、こうして言葉を投げかけている。
「誰も殺したくなんて無かったよ。でも、事実は事実としてここにあって、私の気持ちを言い訳になんか出来ないよ」
「だからって、処分を受け入れるのか。そんな、誰とも知れない形式的ばった罰なんかに、どれだけの意味があるってんだ。ほのかはもう、充分苦しんでるじゃないか」
「それで、殺された人たちが許すはずが無いよ。繰り返すよ。私が苦しんでいることに意味なんて無いの。公平な機能としての罰が必要なんだよ。そうすれば、他の人たちが見た、私の罪が償われるの」
「そんなこと無い。そこまで人は他人に無関心かよ。事情を汲み取ってくれる人だっているはずだ。今はそれが、みんな分かってないだけで」
「優しさを待つなんて、それにどれだけの時間と労力を強いるのかな」
 彼女の言葉と共にコーヒーカップが止まり、取り残された二人はただ黙り込むだけだった。


 デパートの展望台から街並みを見て見たい。会話も無く歩き続けた先、星名が唐突に呟いた。人の多い場所は避けようと考えていた日向だが、彼女の意見に反対する気は起きなかった。
 エスカレーターに乗り、ガラス窓から流れるビルを眺めていた。子供が日向にぶつかっていき、笑い声を上げながら駆けていく。両親と思しき中年二人は何も言わずに子供を追いかけた。後ろでは同年代の男女のグループが、嫌いな教師やクラスメイトの話に花を咲かせている。
 誰も彼もが好きに生きているように見える。笑顔の群れと高い景色のなか、暗い顔をしている自分達が馬鹿馬鹿しくなってくるように日向は感じていた。何を踏みとどまる事があるのだろうか。ちっぽけな自分達が何をしようと、別に何も気にする必要は無いのではないだろうか。これだけの人がいて、たった数人消えようと関係が無い。星名も、変な意地を張らずわがままになるべきだと。
 エスカレーターを降り、数歩歩き出す。
「なあ、ほのか。やっぱりさ」
 そこまで言い、繋いでいた指がほどけていた事に気が付く。振り返ると、星名が頭を抱えこみ蹲っていた。
「どうしたんだ!? なあ、ほのか!」
「あぁ……うぅ……」
 突然苦しみだした星名に駆け寄り肩に手を置く。彼女は額に汗を浮かべ、苦悶の表情でガラス張りの空を眺めた。
「こないで。こないでぇ……」
 体育館や独房に囚われていた時と同様、彼女が苦しみだした。原因は一切不明だ。彼女の精神状態が不安定になったときに暴走が起こるものと考えていたが、逃亡を始めてからここ数日の彼女は安定していたはずと日向は思い起こす。
「ほのか! 大丈夫か!? なあ、どうしたんだよ」
「あぁ、こないで、やめて、離して、入ってこないでッ! おとうさ……」
 それきり彼女は動きを止め、力を失い床へ倒れこんだ。身体を揺すっても反応は無く、周囲も異常に気が付いたのか日向たちを見ていた。このままでは埒が明かない。ベラドンナへ連絡を取ろうと、渡された携帯を取り出しボタンに指をかけたところで、星名が何事も無かったように立ち上がった。
「ほのか……?」
 俯いた彼女の顔を覗きこみ、日向は思わず退けぞいた。表情豊かな彼女とは、まるで別人のような冷たい色。まとわり付いた異質な空気。思わず喉が鳴る。気圧され正視に堪えない威圧感だが、飲み込まれるように彼女を見つめた。
「アア……ようやく、だ」
 地獄の底から搾り出したような、しゃがれた低音が言葉を紡ぎ出していく。
「ようやく、モドれる。ヒトに、カエれる。ナガかった、アア、ナガかった」
「誰だよ……お前、……誰なんだよテメェ!」
 クリーチャーは何故、人との間に子を生したのか。ベラドンナが出した様々な憶測が頭を過ぎり、そのどれもが不正解だと知る。星名の顔で、星名とは違う笑みを浮かべるモノを眺めた。
「そうか。そうなんだな」
 岸峰との会話を思い起こす。人の欲望が形を持って現れる異能。それが死に至ることによって、残留した思念がクリーチャーに成り代わるという。
「戻れるだ? 知らねえよ。テメエなんざお呼びじゃねえ」
 もし、その怨念に明確な意思が芽生えたら。目の前の存在は、戻れると言っていた。人であった頃へ拘泥し、自身の能力で人へ生還する筋道を見つけてしまったのだろうか。そして、自分の魂の器として星名を製造したのだとしたら。
 心臓の奥底に眠る異核を叩き、スイッチを切り替える。『力場』を形成。剣を具現化。
「ほのかから、出て行ってもらうぜ」
 手の平から『力場』の管を構築。剣へ接続し、異能を流し込み、剣を星名の首筋に押し当てた。
 上手くいく保証は無い。クリーチャーに意識を奪われた星名を助けるためには、自身の力よりベラドンナの精神汚染が適切に思えたが、それでは遅いという確信もあった。このままでは星名が消滅してしまう。岸峰と初めて対峙した時と同様、何かに導かれるように行動を起こした。
 これが星名との繋がりなのだろう。彼女は無為に消えてしまいたいと願っているわけではない。まだ生きる意志があるからこそ、こうして日向へ信号を送っている。今の日向にとっては、何よりの後押しだった。
「大丈夫。ほのかは、俺が助ける」
 対象を強く念じ、星名の身体を壊さないよう最低限の出力に絞った。
「……討ち払え」
 言葉と同時に、始めて星名に乗り移ったクリーチャーが日向を不思議そうな顔で見た。何か言葉を発する前に力を解放し、概念の実体化と散布を肌で感じる。星名が一度強く跳ね、身体を崩して倒れこんだ。
 短く息を吐き、彼女の容態を確認する。圧倒するような寒気も感じない。頬に赤みも差し、安らかな寝息も聞こえていた。どっと疲れが押し寄せ、日向は星名の隣に座り込んだ。
「はぁー。よかった」
 そこで、己のしたことに気がつき慌てて日向は立ち上がった。
 観衆のいる中で異核兵装を見せてしまったのだ。このままでは騒ぎどころではなく、追われている身としては致命的だ。急ぎ星名を抱え上げ、その場から離脱する。
「もし。大丈夫なの、その子? 救急車呼んだほうが良い?」
 声をかけられ振り向くと、中年女性が星名を気遣わしげにしていた。不自然な事に、日向の持つ剣は目に入っていないようだった。周囲の人間も同様、星名が倒れたことを遠巻きに眺めるだけで、悲鳴をあげるような素振りは見当たらない。
「あー。……いえ、大丈夫ッス。この子、三日くらい寝てなくて。外に出るなよって言ったんスけど、どうしてもって聞かなくて。単に寝てるだけみたいなんで。すんません。はは」
 日向が言い訳をすると、女性から小言を頂戴した。星名が、その能力で日向の取り出した剣を周囲の認識から外したのだろう。下手に騒がれずに済んだと同時に、彼女も不用意に自身の存在を知らしめて捕まる事を良しとしていない事が分かった。日向と対話をして、納得のいく結論を探したいのだろう。
「ちゃっかりしてんよなー、まったく。……まあ、それも無駄に終わりそうだけどな」
 ガラス張りの空を眺めると、中空に仄暗い染みが広がっていた。その中心から眼球が覗き、先ほど星名を奪ったクリーチャーと同様の凍りつくような重圧感が放たれる。
「本体のご登場か」
 星名と共に逃げ、ベラドンナと合流した方が良いだろう。だがしかし、このままではクリーチャーの影に脅えながらの逃亡になる。軍とクリーチャー。両方を一度に相手取るよりも、どちらかを消す手段があるならそれに越したことは無い。ここでクリーチャーと闘う事によって日向が捕まる可能性が高くなるが、今は星名の安全が第一だ。それに何より、不意を付いて出現したクリーチャーから逃げ延びることは不可能だろう。
 周囲も中空に浮かぶクリーチャーの気配に気がついたのか、ざわめきを起こしている。
 ポケットから携帯を取り出し、ベラドンナへコールした。
「あのー、すんません。ちょっといいスか?」
 隣に立つ、先ほど日向に声をかけた女性へ水を向ける。こちらもクリーチャーの出現する気配に脅えていたが、日向が声をかけたことにより星名へ心配げな表情を向けている。
「ちょっと、この子を安全な場所までお願いしたいんですけど。あと、知り合いの征軍の人と連絡取ったんで、状況とか教えてもらえませんか?」
 戸惑う女性に携帯を押し付け、剣を握り締め疾走。
 どよめく周囲を人を外れた速度で走り抜け、黒い薄雲のかかる空へ跳躍。
「うおおおぉぉぉッ!」
 エスカレーターの手摺を踏みつけ、異形の腕が突き伸ばされた空へ飛び立つ。振り上げる剣と、前に出した腕がガラスを突き破る感触。七階分の高さが受ける気流を浴び、落ちかけた陽が雲間から覗く。
 既に上半身が染みから抜き出たクリーチャーを確認。スリムな人型の上に爬虫類のような斑模様。蜥蜴に近い骨格の出張った頭部。膨れ上がった筋肉が滑らかな力強さを主張している。
「お前は……ッ!」
 体育館で星名が暴走したその日、日向たちを襲い柏原と時宮の命を奪った爬虫類型クリーチャー。
 遂に全身が現れたクリーチャーに対し、剣を振り下ろす。クリーチャーの腕に剣を止められ、重力に従い落下が始まった。
 つかみ掛かるクリーチャーの腕を身体を曲げ回避し、斬撃を叩き込む。またしても腕に止めらるが、反撃の隙は与えない。すぐさま剣を引き戻し、全身のバネを使い連撃。先ほどからの攻防で、クリーチャーの腕と胴体では肉質に差があることが判明。必死に胴へ守りを固めているのが良い証拠だ。
 クリーチャーは自由落下を続けながらの戦闘を避けたがっているのか、腕を振り回すようにして距離を取ろうとしている。
 とうとうクリーチャーの腕が日向を捉えた。剣で防ぎ、後方へ離されないよう下方へ衝撃を流す。クリーチャーの腕を軸に上方へ体重移動、衝撃に視界が回り、前転し、再びクリーチャーの正面。
「オラァッ!」
 その勢いでクリーチャーの脳天に放つ斬撃。身体を逸らされ回避される。反撃の腕を剣で防ぐと、今度はクリーチャーが剣を軸に下方へ勢いをつけた。先に地面へ逃げる気なのだろう。
「……やろうッ! させっか!」
 体勢を下に向け、逆さになったクリーチャーの長い尾を掴んだ。途端に尾がうねり、体が振り回される。純粋な力勝負では圧倒的に勝ち目が無い。しかし尾を離すまいと爪を立て、前後不覚に陥りながら剣を三度振るう。クリーチャーの腕が剣を防ぎ、さらに反撃が加えられ、クリーチャーの身体を蹴り身体を逸らし回避。
 きりもみ状態になりながら斬撃を放つが、日向が体勢を崩した瞬間、遂にクリーチャーが尾を上空へ振り上げた。日向は空へ投げ出され、クリーチャーは地面へ落下する勢いを増している。
 投げ出された勢いの頂点。落下の始まる間際、日向は体勢を取り戻す。体重移動を行い、全身のバネを使用し、引き延ばされた滞空時間。柄の先端を握り締め、剣を振り上げ照準を合わせる。
「討ち下ろせぇッ!」
 高速回転を続ける剣が一直線にクリーチャーへ迫る。クリーチャーの背中を剣が裂き、悲鳴の咆哮が聴こえた。剣が先に地面に突き刺さり、次いでクリーチャーが路面に叩きつけられる。そして、煙を上げるクリーチャーの背中へ膝と掌底を同時に叩き込んだ。
 クリーチャーが反り返り、その口から飛び散る唾液。クリーチャーの体から離脱を図り、跳躍の過程で剣を引き抜く。
「ははっ、どうよ?」
 余裕を持って見せているが以前と同様、放たれるプレッシャーに膝が笑っている。上空からの戦闘では一枚上を行くことが出来たが、それもここまで。クリーチャーが立ち上がり、緩慢な動きで接近してくる。クリーチャーの中では小型に分類されるであろうが、二メートルほどの巨体は眺めるだけで日向を押し潰さんばかりだった。
 周囲のざわめきが悲鳴に飲み込まれた。征伐自衛隊が駆けつけるまで五分も無いだろう。その間にクリーチャーを倒さなくては、ベラドンナ達と合流できる望みは薄くなる。
「クソ……ッ!」
 空気の爆ぜる音と共にクリーチャーの姿が掻き消える。右目を失った記憶が蘇り、反射的に剣を眼前へ引き上げた。直後、剣ごと衝撃が全身を貫き身体が吹き飛ばされる。そして、脇腹へクリーチャーの尾が叩きつけられ、バウンドを繰り返し道路へ転がった。
 クリーチャーの単騎撃退世界レコード、十二分四十九秒。
「知るか、そんなもん……ッ!」
 震える腕を押さえつけて立ち上がる。
 目前のクリーチャーは今まで戦ってきた中で間違いなく最強。日向が一度も勝てなかった巳荻百花ですら、手も足も出せずに倒された。
「だから、どうした……ッ!」
 クリーチャーと同じ空気の中に居るだけで腰が引けていた。周囲の人間も、何人かは逃げる事もせず呆然と絶望に身を浸している。
「やるしかないんだ。ここで、どうあっても。そのために、そのためだけに……ッ! 俺はもう、出し惜しみなんかしねぇんだ!!」」
 ポケットから取り出したピルケースを頭上で傾ける。滑る錠剤を受け止め飲み込んだ。周囲の色彩が溶け落ち、輪郭が後を追うかと思えば波に揺られて上空へ昇る。口内がゼリーに変わり、肉袋を着込んだだけのような触覚の喪失。
「があああぁぁぁッ!」
 頭の芯だけが、何かに押さえつけられるように痛む。身体に大きな穴が空き、仮初の抵抗が抜け落ちていく。代謝機能は貪欲に内面を貪り表象へと浮かび上がらせた。
 クリーチャーが再び日向を襲い掛かる。一瞬にして視界から外れる常識を超えた速度。
「見えてんだよォッ! 蜥蜴野郎がッ!」
 無我夢中で剣をスイング。迫り来るクリーチャーの腕を叩いた。意表を付かれ、攻撃を受けたクリーチャーは即座に後退。一足飛びで追撃。弾丸となって接近し、押し当てる剣。深く入りすぎたためか剣を振るう事もできず、クリーチャーの腕に阻まれた。
 しかし、クリーチャーが痛みに声を漏らす。同時に放った蹴りが、クリーチャーの斑に染まった鳩尾に深く刺さっていた。
 肩が外れるかと思うほどの力で振り抜く剣。だが、クリーチャーの堅牢さは崩せず、逆に日向が自身の力の作用で離れていく。掴みかかるクリーチャーの腕を剣で防御。そして、クリーチャーの蹴りが日向の鳩尾に突きたてられた。
「おぉッがっはぁッ!」
 吹き飛ばされ、路面を転がりながら手をつき反動で飛びずさる。
「はあっは。ヒヒッ。ヒッヒ。負けず嫌いじゃねーかオイ。オラオラどんどん行くぞオイィィィッ!!」
 そして夕暮れの街並みに、クリーチャー発令警報が高らかに鳴り響いた。


 時計塔の針がコトリと音を立てて動いた。夕暮れの赤は藍を増し、頭上に夜が訪れる。分厚い雲が覆い始め、今にも空が泣き出しそうだった。
 剣の軌跡が薄暗さを落とした街に一筋光り、追い立てる異型が暴風となって流星を弾き飛ばした。幾度と無く繰り返される競り合いは日向の力負けで仕切りなおしを見ている。体力のペース配分などを無視した動きでクリーチャーと戦い続けては倒され、そして果敢に立ち向かう。
 現在まで単独でクリーチャーとの長期的な戦闘を行っていなかった日向にとって、これは未踏の領域だ。それも冷静さを欠き、身体の限界を度外視した動きを続けている。だが圧倒的な身体能力を誇るクリーチャーと戦うにあたり、今の日向は最も重要なものに特化されていた。一つの感情に塗りつぶされた左目は、まだ激しい色に浸っている。
 クリーチャーの体力とて無限ではない。徐々にだが、クリーチャーの動きが散漫になる時間帯が現れている。その兆候が、追随する興奮を飼いならす余裕を日向に与えていた。
「なんか、おっかしーんだよなぁ」
 膨れ上がったクリーチャーの筋肉がしなり、その姿が消える。上空から迫るクリーチャーの攻撃地点を見定め、限界まで引き付けた後、後退と同時に斬撃を放つ。傷は負わせたが当然浅い。そのまま後ろへスッテプを踏み距離を空ける。
 今現在、日向はクリーチャーの速度に対応できているが、それはなぜか。当初、薬物の効果で反応速度の限界を引き上げたためと思っていたが、それでも巳荻や城之崎の一歩先を行く程度だ。何も出来ずに倒された巳荻の事を思うと納得がいかない。
 既に数分以上戦い続け追いすがっているため、目が慣れてもおかしくは無い。だが、クリーチャーは最初の一歩目で確実に日向の視界から消えるのだ。
「ヒッハ。なんでこんな簡単なことに気がつかなかったんだろうなあ! アッヒッ!」
 眼前に居る爬虫類型のクリーチャーは、星名ほのかの父親。人との間に子を成し、その身体を奪い取れるほどの特殊な能力を持っている。
「いや! 気がつかないようにされていたッ! かなぁ!?」
 心神喪失に追い込む異常な重圧感。規格外の速度。それら全てが、星名と同様の能力によって見せられた幻覚。ベラドンナの精製した薬の汚染効果でクリーチャーの能力を中和しているため、前回とは異なる過程に達しているのだろうと結論付けた。
「そんなんで、あいつ等を俺たちから奪ったってのか……。お前が近くに来た所為で、ほのかは、あんなことしちまったってのかぁ!?」
 クリーチャーの姿が一瞬にして消えた。だが、もう目を見開き追いかける必要は無い。意識を向けるは別の箇所。頭蓋の中に指を伸ばし、ことさらに焼けばちを当てられた場所を探り当てる。
 痛みが激しさを増すに連れ、クリーチャーの姿が視界に浮かび上がってはまた消えた。
「カモォン、カモーン、カマンカマンカマン、イヤッハ!」
 抵抗不能の懸け隔たりは存在しない。偉容の大柄も見慣れたものと大差無し。
「ファックミーファックミーファックミー! ぉぉうッ、ファッッッキュゥゥゥ!!」
 ここに勝敗は決した。クリーチャーの腕をすり抜け放つカウンター。袈裟に斬られたクリーチャーは絶叫を挙げ後退。再びその姿が消え、接近したところを迎え撃つ。
「お前如きが、俺の女に手ぇ出してんじゃねぇぞッ!」
 空を斬る剣。クリーチャーは日向の迎撃に合わせ回避を選択。迂闊に手を出さず、動き回りながら様子を見ている。無闇に追いかけず、日向はその場で立ち止まった。反撃だけで事足りると言うことは、既にクリーチャーは日向を力で捻じ込める余力が残されていないのだろう。疲れは感じないがしかし、こちらも流石に顎が上がっている。
 戦闘を開始してからどれ程の時間が経過しただろうか。陽の落ち具合から見て、もう征軍が到着してもおかしくは無い時間のはずだが、そのような気配は感じられない。
「もういい。これ以上付き合ってやれねーよ。終わりにしようぜ、お義父さん」
 心臓の奥に張り付いた異核を叩き上げ、手の平から『力場』の管を形成。
 異型へ向けて奔り出す。
 溶け出した心身は鋼の中へと抽入。新たな感覚器官を練り上げ、自身が剣そのものに到来。
 降りかかるクリーチャーの腕へ斬撃を放つ。両者は弾かれ、クリーチャーは距離を詰めに来た。
 溢れ出る力の奔流、押し留めることを放棄。形すら失いそうになるほどの圧力。底の尽きないパラノイア。
 弾かれた腕を上段の構えに移行し、クリーチャーの尾が日向を強かに打ちつける。足を突き刺し、たじろぎを失くす。
 起こす撃鉄。絞る引き金。
「討ち、滅ぼせぇッ!!」
 一瞬にして剣が肉塊を食い千切り、分断されたクリーチャーの半身が無残に飛び散った。宙を舞うクリーチャーの身体は回転を続け、路面に叩きつけられ、腕を支点に暴れまわったあと小さく一度跳ね、その動きを永久に止めた。噴水のように血を撒くクリーチャーの右半身が、ゆっくりと地面に横たわる。そして、クリーチャーの身体が灰となって消えてゆく。数秒後には跡形も無くなっている事だろう。
「あ……れ?」
 そして、日向悠生は気が付いた。己がしたことの事実に。
「いや、ちょっと、ちょっと待ってくれ」
 日向悠生は理解した。揺らぎが訪れた事に。
「そんな、そんなのって……。ああ」
 日向悠生は直感した。この身を蝕んでいた汚染の正体を。
 地面に伏したクリーチャーの身体が、全て灰となり風に乗る。
 その場に立ち尽くす日向悠生は、いや―――"俺は"、分かっちゃいたんだよ。どうしようもないってことを。ほのかの能力を知ったその日から、こんな日がいつか訪れるだろうなって。
 なんなんだろうこれは。つまりあの爬虫類が、ほのかの能力の源泉だったってだけで、要するに俺は今ほのかの影響が完全に無くなってしまったってことなんだろう? そんでさ、一瞬前まで宝石のように煌めいていた想いってヤツがさ、今はもう、どこか遠い出来事のようにしか見えないんだ。どうしようなんでかな。
 分かっちゃいるんだけど理性が追いつかなくて、ただ投げ出されたような不安感と取り残された焦燥感で意味も無く身体が落ち着かなくって、嫌だ嫌だ嫌なんだ。こんな広すぎるところ望んじゃいない。どこなんだよここはどこなんだ。
 嘘なら嘘でそれでも構いやしなかったんだ。それならそうと最後まで俺を騙して欲しかった。彼女への気持ちも今までの想いも、全部が全部ウソッパチだったんだ。下らなくて空っぽだったなんて、そんなの信じたくないんだよ。
 寂しくて寂しくて震えが止まらない。寒くて怖くて身体が竦む。
 ……でも、なんでだろう、どうしてかな。頭の中がグルグル回ってよく分からないんだけど、もしかしたら心にも慣性が働くのかもしれない。
「会いたい。抱いてくれ……」
 俺はまだ、少しだけ彼女の事が好きだった。それが例え、思い出の中だけだとしても。


 何も出来なかった。今まで生きてきて、下らないルーチンワークをずっとやり過ごしてきた。クリーチャーを倒すことも学校の特訓も親から逃げる事も何もかも。ただ広いだけで何も無い場所なら、いっそ地獄にでも行きたかった。どれだけ手を伸ばしても星に手が届く事はなかった。
 そんな時に、ほのかと出会ったんだ。触れたら壊れそうな繊細に出来た人形のようでさ、神秘的な空気に見とれるんだけど、喋ると表情がコロコロ変わって本当に可愛いんだ。ほのかの体は小さくても温かくて、唇は柔らかだった。
 運命だなんて思った。彼女に出会ってから目の前が明るくなったような気がして、なんだって出来るような気がしたんだ。あのちっぽけな街で、こんな情けない人生の中で、ほのかに貰った言葉より大事なものなんて、どこ探したってありっこないんだ。
「こんな所に居たくない。嫌だよ」
 なのに、今はこんなにも彼女が遠い。忘れたくない。ずっとあのままがよかった。
「それで? 今度はどこへ逃げるつもりなのよ、日向」
 見上げると、流れる黒髪と切れ長の瞳。夜風にうたれて、紺色の戦闘服に身を包んだ巳荻百花が、俺の前に立っていた。

あきねずみ

Author:あきねずみ

セルフ 貴子同盟

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