鼠の騙し討ち

太刀打できますん

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 十二月にベラドンナの能力で酩酊した時よりも、念入りな身体検査を受けた。事情聴取も同じ。それもそうだろう。日向悠生は、前回のクリーチャー襲撃時の避難所で唯一生存した被害者だ。親友達の死を悲しむ暇も無く聴取は続けられ、ようやく開放されたのは事件から数日後だった。
 痛む身体を押して仄草教諭を尋ねたが、聞きたいことは何も答えてもらえなかった。彼の立場を鑑みれば当然だろう。事情聴取の時も、こちらの質問はほとんど却下された。
 桜の絨毯を踏みしめながら、日向は校内を歩いていた。幻惑的に降り注ぐ桜吹雪が、どこか血のような色で左目に映った。右顔面に巻かれた包帯の奥は、もう何も映し出すことは無い。既に潰された眼球は摘出されている。巳荻の助けが後一瞬遅れていれば、クリーチャーの爪は日向の脳に届いていた。
 折られた肋骨は内臓を傷つけたが、異能による驚異的な回復力で動けるまでにはなった。しかし、『力場』を展開し、常人に比べ数倍の身体能力と回復能力を備えた身体も限界に近い。既に荒い息を吐き、身体をくの字に曲げ、滝のような汗をかいている。
 近頃、入退院を繰り返す自分をゴキブリのような生命力だと日向は哂う。その点で言えば、クリーチャーとさほど変わらない。回復速度も遅ければ再生能力も無いが、異核によって発生する『力場』を使用することで、それまでの人類とは比べ物にならない耐久度を手に入れた。
 それも、ただの長持ちする消耗品だ。与えられた役割をこなすだけの、顔も知らない誰かのために使い捨てられる駒。無駄な事は知らされず、命令を誇りに行軍する。英雄でもヒーローでもなかった。それでも構わないと、自分の力が他人を守っているんだと信じていた。だが、非力な子供も親友達も守ることすら出来無い、ただの案山子だと悲観する他に彼が出来ることはなかった。
 しかし、立ち止まるわけにはいかない。足取りは重く、どこへ向かっているのかも定かではないが止まってはいられない。待っていても、もたらされる物が最善と言い切れない。次に自分が打つべき手も分からないが、彷徨う足は目指すものも無く動き続けた。苛立ちと焦りが募っていく。
 眩暈が、空に緑色のカーテンを引く。色彩の感覚も怪しくなってきた。
「どうした、日向。もう復帰か?」
 中庭を歩いていると声をかけらる。顔を上げると、城之崎大地が立っていた。声を出そうとして淡を絡ます。咳をし、渇いた喉を絞り上げた。
「ああ、とりあえずは」
「そうか。それにしても、この状況を考えれば早い復帰だ。そう思わないか? ……よかったじゃないか。薄暗いところに閉じこもっていると気も滅入る」
 城之崎の後半付け足したような言葉は気になったが、「どうだっていいよ、そんなこと」と返した。事実、どこにいたとしても日向が晴れやかに過ごすことなど無理な相談だ。
「後で柏原と時宮に別れを告げておけ。今回の戦死者は、あの二人だけだ。戦闘クラスは」
 最後の一言で凍りつく。目の前で奪われた親友達の命と同じく、重く横たわった事実がそこにある。己の非力さを侮蔑し続けると同時に、頭の中は彼女のことで埋め尽くされていった。
「救護班は全滅だ。星名の手によってな」
「知ってるよ。それで、ほのかは今ここの独房か?」
 今更疑う余地は無い。避難所から逃げ出した者の証言によれば、クリーチャーが現れ人々を襲ったそうだが、避難所に取り残された一部の者たちに外傷は無かった。以前、城之崎が星名に校舎裏で言っていた精神汚染の能力だろう。
 彼女が、人を殺したのだ。
「このままじゃ、ほのかは隔離施設行きだろ。どうにかして、助ける方法は……。確か前例があったはずなんだ。訴訟を起こして施設行きを免れた人が」
「おい、何を言っているんだ? 隔離施設? 馬鹿を言うな。あれほどの人間を殺したんだ。処分されるんだよ、星名は」
 頭が回らない。処分とは何だ? その処分というのが、隔離施設行きのことではないのか。異能犯罪者や、無尽蔵に被害を出す可能性を持つ能力者が押し込められる孤島。そこでは非人道的な人体実験を繰り返し、日々異能者の研究が進められていると聞く。そこへ行く事が罰と言わず、彼女は何を受けるんだと、分かりきった答えを前に言葉をなくした。
「実害が出た時点でアウトだな。役所もクリーチャーのことで手が回らない。そんな危険因子に割ける時間は無いと言うことだ」
 無慈悲な現実は、冷たく日向の手を取った。先ほどまでの、憂色の濃さで走り出しそうだった気勢は真白に。二人以外、誰もいない中庭の静寂に心臓の音だけが騒々しい。上体の力が抜けるが、倒れることなく支える足が縫い付けられたように動かない。それもいつまで続くか分からず、支柱を残さず奪い取られた彼は、ただ倒壊の軋みを眺めるだけだった。
「翌日にでも、星名はここから移送される。それまでに、整理をつけておくんだな」
 日向の肩を叩き、城之崎が歩いていく。呆然としながら、呟くように声が漏れた。
「どうして。どうして、ほのかはあんなことを……」
「知りたければ本人に聞け。面会は謝絶だがな」
 凝然として、抜け殻のような日向の脇を通り抜けた城之崎が足を止めた。
「ねえ、どういうことよ、それ」
 声に振り向くと、巳荻百花が立っていた。しわがれ、弱々しい言葉。人の目を見ようとせず俯く姿は、いつもの凛とした声や立ち振る舞いとは違い、今にも砕けてしまいそうだった。体中に巻かれた包帯が、痛々しいほどに白い。
「お前も戻っていたか。聞いたとおりだ。明日、星名はここを経ち、戦死扱いされる。もっとも星名に家族はいないため、そんな配慮は不要だろうが」
 城之崎の言葉に巳荻が膝を着いて、赤く腫れ上がった目を手で覆った。
「う、あたし、あたし……ほのか」
 地面に黒い染みが点々と広がる。責任感も人一倍強い彼女だ。どれほど自分を責めていたのだろう。自分が長を勤める班から死者が出た直後、親友の処分を知らされる彼女の胸中は計り知れない。重い沈黙の中に、彼女の嗚咽だけが響く。
「もういい。お前は部屋に帰って休んでいろ。星名の能力に気が付いているにも関わらず、何もしなかったお前を誰が慰めると言うんだ」
「え……おい、それって……」
 続く言葉を探していると、巳荻が肩を振るわせ、走り去っていった。
「あ……」
 背中を見つめるが、かける言葉も差し伸べる手も持っていないことに気が付く。
「星名の傍にいたアイツが感づいていないわけは無いだろう。知らない振りをしていたかったのか、こうなる事を望んでいたのかは分からんがな」
 城之崎の言葉から逃げた巳荻のことだ、本当に星名の能力については当たりがついていたのだろう。だが、彼女は他人の不幸を望むような人間ではない。そうでないと信じたかった。
「お前にしてもそうだ。一番傍にいたはずのお前は、星名の能力に自力で気が付かなかったのか? だとしたら、とんだ間抜けだな。気が付いていたとしたら、何故何もしなかった。居心地でもよかったのか?」
 悔しいが言われたとおりだ。あの校舎裏での会話を聞き、星名の危険性を知っていたのにも関わらず、自分のことしか考えていなかった。だが、ここにきて悔しさというものが自分にある事を見つけた。
 悲鳴を上げ、今にも音を立てて崩れ落ちそうな心臓に暗い影が落ちる。手近なもので、憤りを解消しようという浅ましさ。だが、城之崎を睨みつける視線は止められなかった。
「星名にしても、こうなる事は予測できていたはずだがな。まったく、考えの足りない奴ばかりだ」
 城之崎は、見上げる日向の視線など涼しい顔で受け流している。
「……その、何でも分かってますって顔がムカつくんだよ。ほのかは、自分で抱え込んじまっただけかもしれないだろ。巳荻だって、知っててもどうすることも出来なかったってだけじゃないのかよ。お前の思い込みだけで、あいつらを貶めること言ってんじゃねえよ」
「ははっ。ああいいぞ、言い返すだけの気力は残っているじゃないか。もし自分の言い訳や星名のことで俺に矛先を向けていたら、とことんお前に幻滅するところだ」
 ギリ、と歯がなる。こちらの怒気も、反発も、全てが取るに足らないと嘲笑する口元が思考の暴発を促す。今にも飛び掛りそうな日向を止めたのは、携帯電話の着信音だった。一気に場が白け、もう城之崎は日向を見てはいなかった。
 苛立たしげに携帯電話を取り出し、ディスプレイを見る。呼び出し人は、藤原。先の戦闘で戦死した柏原の、恋人だった。


■    ■    ■


 話したいことがあるから今すぐ出てきて欲しいと藤原から電話があり、日向は外出届を出し街へ向けて歩いていた。待ち合わせ場所に静かな公園を指定してきたあたり、校内ではマズイ内容なのだろう。負傷の所為だけではなく、足が重くなる。藤原の話というのは、柏原のことでまず間違いないだろう。星名の事を考えていたかったが、そういうわけにもいかなかった。
 彼女は自分を責め立てるだろうか。それとも、彼の死に際にあったことを聞かれるのだろうか。何はともあれ、彼女は今の状態にケジメをつけようとしている。
 酷い話だが、彼女が羨ましかった。この息苦しい中で、出口を見つけようとしているのだ。痛みを伴う覚悟に、友人としては応えなくてはならない。どのような答えを出そうと、彼女の胸にこの事は一生残り続けるだろう。気を引き締め、彼女との会合に臨む。彼女の境遇とその痛みは、自分にも足音を立てて近づいているのだから。
 公園へ向かうための歩道橋に差し掛かった。丁度、歩道橋の上を走る高速道路の影に入ったところで眩暈がした。滲むような夕陽が陰影を生み、視界の滲む日向は躓いた。
「あら、少年じゃない。ご機嫌いかが?」
 突然聞き覚えのある声をかけられ、見えない糸に絡め取られたように歩を止める。
「奇遇ね、こんなところで会うだなんて。せっかくだし、お茶でもどうかしら?」
 歩道橋の欄干にもたれながら、馴れ馴れしい言葉とは裏腹な無機質さで、ベラドンナが日向を見ていた。長い髪は黒く染めており、白を基調としたゴシックの衣服が風に揺れている。まだ肌寒いだろうがノースリーブだ。そして二の腕まである手袋を嵌めている。つばの広い帽子にもフリルが付いており、一見するとどこかの令嬢のようだった。
 先ほどまで誰も居なかったはず。見通しも悪くないこの歩道橋で、眩暈がした日向の前に一瞬にして現れたというのだろうか。
「アンタさ、いつも思うんだけど、普通に出てこれないわけ?」
「様式美かと存じまして」
 飄々とした態度のベラドンナと距離を取るため、ジリジリと後退する。現状では勝ち目が一切無い相手を前に、どっと汗が噴き出してきた。なんとしてでも逃げ出さなければならない。こんな所で死ぬわけにはいかない。一目だけでも構わないと、日向は星名を渇望した。
 だがその前に、確認しなければならないことがある。
「用件の前に一個聞きたいんだけど、藤原は無事か?」
「フジワラ? 誰のことかしら」
「知らないんだったらいい。俺の勘違いだよ。けど、どうも引っかかって。アンタがここにいるのは、ほのかを奪うためだろ? 偶然なんて嘘だ。そんで、ほのかの傍にいる俺を始末するためかどうか分かんないけど、校内にいるところを引っ張り出すために友達を利用した、って思ってさ」
「あら、随分疑り深いのね。お姉さんは悲しいわ。数少ない知り合いを見つけて、舞い上がって声をかけただけだというのに」芝居がかった調子で悲しむ振りをするベラドンナが、嗜虐的な表情を見せた。「もちろん嘘だけど。そばかすがラブリーよね、フジワラちゃん」
「無事なのかって聞いてんだッ!!」
「騒ぐな」
 鋭い言葉と共に、背後から殺気を投げつけられた。『力場』を展開する直前、絶妙のタイミングで動きを制される。
「岸峰、虎太郎……」
 黒いスーツと、パーマをかけた長い髪。無精髭も、以前見たとおりのままだ。ただでさえ最悪の状況が、輪をかけて酷くなる。
「知っているわ! 後門の虎ね! 後門の虎だわ! 嘘ばかりついた私は狼少年だから、これぞまさにと言うやつね!」
「誤用だ。そして騒ぐな」
 両手を広げて感激しているベラドンナに、岸峰はあきれ返った様子で言葉を投げた。
 下らないやり取りの間に逃げられるかと様子を窺ったが、一瞬たりとも二人に隙は無かった。『力場』を発動させつつ歩道橋を飛び降りる過程で、銃弾か刃が身体を貫くであろうことは容易に想像が出来た。
「そんなに焦らなくても大丈夫。フジワラちゃんなら、無事にお家へ帰してあげたから」
「それも嘘だったら、一生かかってでもお前らを殺してやる」
「あら素敵。情熱的ね。もったいないことしたかしらん」
「もういいだろう、話が進まない。お前の行ったとおりだ。俺たちは明日移送される星名を攫いに来た。そして、藤原を使ってお前を呼び出させ、傷ひとつつけず家へ帰した」
 移送のことまで知っているのかと歯噛みするが、ひとまず信用する事にしよう。藤原の安否は後でも分かる。手遅れでなければの話だが。
 こんな所で連中に付き合う義理はないが、ただで帰ることも出来ないだろう。
「それで、俺に何の用なんだよ」
「あなたが、欲しいの」妙に熱の篭った瞳で見つめられる。「ああ、ごめんなさい。怒らないでコタロー。怒っちゃ嫌よ。私のハートは、コタローだけの、も・の」
 大きなため息が聞こえる。敵ながら同情を禁じえなかった。しかし、この茶番はいつまで続くのか。ベラドンナの奔放なペースに飲まれ、時間だけが無為に過ぎてゆく。
「けどね、あながち冗談でもないのよ。あなたが欲しいと言うのは」
 ならばどういうことだ。まさかヘッドハンディングとでも言うつもりか。しかし、その可能性は無いだろう。そこまで日向は自分の能力を過信してはいない。この場合、能力よりも適合性なのかもしれない。そうすると、導き出される答えはひとつ。
「なぜ、あなたは星名ほのかが能力を行使したのにも関わらず、生きているのかしら。そう、アナタが彼女の想い人だったから。愛の力って、ステキだと思わない?」
「ほのかを抑止するために、俺を押さえておきたいって?」
 随分と無茶な話だ。その場合、日向が五体満足意識明瞭でいられる保証も無い。
「それだけじゃないわ。協力して欲しいの、星名ほのかの奪還を。このままじゃ、星名ほのかはいなくなってしまう。あなたのお姫様、助けたいとは思わない?」
 意外な、しかし今の若く血気盛んな少年にとっては効果的な誘いかただ。国が一度下した決定を覆す事など稀だ。その上、星名に対しては臭いものに蓋の理論。方法も時間も無い八方塞の現状を打開したい人間にとって、強攻手段を謳うベラドンナは魅力的に写る。ただの学生部隊では、命令に対して首を立てに振ることしか出来ないだろう。
「アナタは見捨てるのかしら。自分の恋人を。愛しい人を。まだ彼女は生きていると言うのに、仕方ないとでも言うつもりかしら。でも、難しいじゃない。アナタ一人じゃ。だから、私たちがアナタの手助けをしてあげる」
 子供達の悲鳴が聞こえた。時宮の慟哭が耳から離れない。柏原の抵抗が右目に焼きついている。巳荻だけでも生きていてくれたのが、たまらないほど嬉しくて、彼女に悲痛な顔をさせるのが、ひどく悔しかった。
「合理的に考えれば、アナタの協力なんて必要無いの。拘束してどこかに放り込んでおけばいいだけだし。でもね、私はアナタに、納得してついてきてほしいの。それはね、見て見たいから。愛の力を。星名ほのかだって、彼氏が無事で、傍にいてくれるほうが安定するでしょ?」
「ふざけんなよ。俺は……」
 だとしても、安易にその提案を受け入れることは出来ない。確かに星名は助けたい。時間も無い。手段を選んでいられないかもしれない。だが、引き換えに失われるものも多い。近頃はようやく父も落ち着いてきたと、母がよく電話をかけてきていた。そこで息子が犯罪者となれば、周囲からどんな目で見られるだろうか。
「ここで何もしなければ、永久に彼女とは会えない。どんなに望んだとしても、残る結果は消却されたという事実。彼女は何も残せず、何も産み出せず、ただ残骸としてカウントされるだけ。それが許せるというのなら、アナタはもう彼女を忘れなさい。私たちが、アナタも彼女も頂いていくだけだから」
 甘い誘惑は飲み込んだが最後、日向はどこかに幽閉され、星名が用済みになれば捨てられるだろう。ならば、せめて彼女の傍にいることが最善な気もしていた。天秤にかかる荷重が、一秒ごとに入れ替わる。
「それと、アナタが今の立場でどう動こうが既に手遅れなの。だから、できることなら自らの意思でアナタに協力して欲しい」
「手遅れって、なんだよ。自分が出てきたからって言いたいわけか? 随分自信があるんだな。今まで散々失敗してきたくせに」
「あらあら、痛いところを点いて来るじゃない。でもそれだけじゃなくて、私たち以外に最近になって星名ほのかの存在に気が付いた人間達がいるのよ。その人間達が動き出したら、星名ほのかを奪うのが今以上に困難になる。だから、今のうちに片を付けておきたいのよ」
「ほのかを他にもを狙ってる奴がいるのかよ。何なんだよ一体。ほのかに何があるっていうんだ」
「知らされていないのだから、仕方ないじゃない」
「それ、どういう意味だよ」
「判断材料として教えてあげてもいいわ。星名ほのかに何があるか。私がなぜ、血眼になって星名ほのかを奪おうとしているかを、聞きたい?」
 その問いに逡巡するが、日向は力無く頷いた。
「いい子ね。じゃあ教えてあげるわ。私はね、クリーチャーのことが知りたいの。ただ純粋に。そして、星名ほのかはその手がかりになるはず。答えは単純。なぜなら、星名ほのかがクリーチャーだからよ」


 十七年前、クリーチャーの襲撃があった。その時、逃げ遅れていた女性が征伐自衛隊によって救出される。そこまでなら問題は無いが、女性にはいくつかおかしな点があった。クリーチャーに襲われたのにも関わらず、外傷がほとんど無いのだ。さらに、救出された女性に意識はあったのだが、どこか呆けた様子で社会生活を送ることすら困難だった。
 そして、さらに異変が生じる。女性の妊娠だ。女性は不妊症からの離婚経験があった。交際していた男性も当時おらず、彼女が妊娠するはずはないと担当医も証言している。女性は、自身の妊娠を不審に思う判断すら出来ない状態だった。ただ、彼女は「声が聞こえる」と繰り返し呟いていたのだそうだ。どんな声が聞こえるのかと周りの人間が訪ねると、「望まなくてはならない」と言う声が常に聞こえ続けていたのだという。
 彼女は身寄りが無く、お腹の子と共に施設に引き取られる予定になっていた。そこへ、征軍で異能遺伝子を研究していた星名が彼女を引き取るといった。当然、善意からの行いではない。
 クリーチャーの子供という可能性がある、と星名のレポートには書かれてあった。声の正体も、クリーチャーからのメッセージかもしれないと。
 しかし、星名はそのことを公にはせず闇に葬る。地位も低くコネも少ない星名は、それでも女性を自ら研究したいと言う欲求に逆らえずにいた。偉大な発見がそこにあったとしても、隠蔽した事実が星名の将来を閉ざすだろう。
 星名は真っ先に胎児の遺伝子を調べた。結果、胎児は母親の複製ということが分かった。多少の劣化は見られたが、ほぼ彼女と同じ遺伝子の子供がそこにいたそうだ。
 ここにきても、クリーチャーは一切痕跡を残すことはなかった。

 そして数ヵ月後、星名ほのかが誕生する。髪や肌の色素が薄いこと、色盲であること、味覚の欠如と成長速度が若干遅いこと以外はどこにでもいる普通の子供だった。当然、異核も存在しなかった。
 女性は以前どこか気が遠い様子だったが、星名ほのかに対してだけは明確な意思を表示した。嫌悪だ。星名ほのかが近づくと癇癪をあげ、虚ろだった表情にも赤みが差した。罵詈雑言に虐待と、実の娘を相手に、実の娘だからこそ容赦はしなかった。それでも、年月を重ねると落ち着いてきてはいたそうだ。しかし、星名ほのかへの態度は変わらず、視界にすら入れようとしなかった。
 星名ほのかが十歳になったころだった。依然として星名の研究は進まず、星名は軍をやめ星名ほのかの研究に専念しようとしていたところだった。休憩のため居間に下りると、大きな声が聞こえたのだそうだ。ドアを開けると、母が娘に対して抱擁していた。絞め殺そうとしているのかと焦ったが、そうではない。母も娘も笑顔でじゃれあっていたのだ。
 親子の様子が突如変わった。それまで見るものを不快にさせるほど排他的だった関係が、中睦まじいものに変わったのだ。母は娘を溺愛し、それ以外のものは見えていないようだった。
 そして同時に、星名ほのかが頭痛を訴え始める。検査の結果、特に異常は見受けられなかった。星名ほのかの頭痛は、母親が死ぬまで続いた。
 母親は数年後に原因不明の死を遂げたが、症状を検分した結果、おそらく星名ほのかが何かしらの影響を与えていると考えられた。異核兵装の精神汚染ならまだしも、星名ほのかは異核すら持っていない。だが、不可解な状況を見ると星名ほのかが何らかの手段で与える精神的な負荷に、母親の脳が耐えられずに限界を迎えたのだろうと星名は推察した。
 星名ほのかは異能者ではない。しかし、何かしらの能力を兼ね備えていることが朧気ではあるが理解できた。


「そこで星名の研究は止まっているの。クリーチャーの子供がいるかもしれないと知った私が、星名ほのかと彼が研究していた資料を奪いに行ったのが十二月。少年と初めて会ったときのことね。そして、つい最近星名ほのかの存在を知ったのが政府の人間なのよ。今まで殺しても灰になって消えるか、染みに溶け込んで逃げるだけだったクリーチャーが人間と交わり子を残した。見逃すはず無いじゃない」
「でも、ほのかは処分されるって……」
 言っていて、まるで興味関心が無い自分に日向は気が付いた。しかしそれは、いつものような俯瞰した風景に対する実感の伴わないものではない。
「ん~? 鵜呑みにするの? そんなこと。このままいけば、政府は星名ほのかを書類上死亡した事にして、モルモット同然に扱うわ」
「それは、お前も同じなんじゃないのか」
「そうだけど、アナタが協力してくれるなら約束しましょう。命に関わるようなことはしないと。星名ほのかに対して行う実験の内容を包み隠さずアナタに話し、施行の判断はそちらに預けると」
 破格の条件に見える。日向が政府に対して、この件を公にし同様の取引を持ちかけたところで消されるのが落ちだ。仮に上手く行ったとしても、星名は普通の生活を送ることなど出来はしないだろう。
「その場合、例えばグレーゾーンな実験を俺達が断って、アンタの望みが叶えられないとしたら?」
「その時は別の方法を探すか、お互いを理解しあうために話し合いましょうよ」
 どこまで信じていいのか分からない。それこそ鵜呑みには出来ないだろう。そもそも最初から信用する道理などはない。だが、この話を頭から拒否することも出来そうにない。
 このまま行けば、彼女は政府の人間に捕らえられる。その状況を打破するためには、多大な労力と時間を要するだろう。軍内部で星名を取り戻せるほどの力を手に入れることが出来たとして、その間に彼女が始末されてしまっては元も子もない。
 ベラドンナに手を貸したとしても、逃亡しながら彼女の実験に付き合わなければならない。いずれにせよ危険が付きまとう。
 ならば、彼女が普段通りの生活を望めないまでも、何者にも脅かされない状態に持っていくためにはどうすればいいか。
「……あと、それでさ、いくつか質問があるんだけど。まず、ほのかに異核が無いってどういうことなんだ」
「異核が無いのは、恐らく彼女の能力で誤魔化したんじゃないかしら。愛しい彼に会いたいがために」
 と言う事は、星名はある程度自在に能力を行使できるのものと思って構わないということ。彼女の能力は精神汚染。彼女の母親に対して、そして日向や巳荻に対しても気付かれる事無く効果を発揮し、ベラドンナよりも上位の力を秘めている。つまり、希望はまだ残されている。彼女が能力を完全に扱う事さえできれば、ベラドンナや政府の人間を出し抜き静かに暮らすことも可能なのではないか。
 今はまだ、不安定な彼女を助け出すことが先決に思える。その場合、日向は自身の周りのものに対してリタイヤを告げなければならない。だが、もう星名は普通に暮らす事は出来ないのだ。その彼女に付き合うとなれば、相応の覚悟をしなければならない。それが嫌なら目を瞑り、彼女を失う事を受け入れる道しかないだろう。その先の人生が想像できるか。出来なくても続いていくのだろう。後悔の足跡を延々と付けながら。
 僅かに見つけた希望が、目の前を白く染め上げる。
「痛ッ」
「どうしたの?」
「いや、なんでもない。気にしないでくれ」
 突然襲ってきた頭痛に眉を顰める。薬が切れたのだろうか、断続的に締め上げる痛みを堪えた。
 決意を固める時間を、心を定める猶予を、ほんの少し求め、喋りたがりの目の前の女性を煽る。
「それと、なんでクリーチャーはそんな事をしたんだ。どうして、子供を作るなんてマネを」
「クリーチャーがその女性を愛してしまったからよ。美女と野獣なんて素敵だわ。……冗談よ」
 呆れかえる日向を前に、ベラドンナはマイペースに茶々を入れてくる。ポーズだけは保つため苛立つ視線を向けると、彼女も肩をすくめた。
「はっきりした事は当然不明。それを調べに行くのよ。クリーチャーという災害から生き残る術としての異核も、クリーチャーが子を残したという事実に否定されるかもしれない。新しい可能性の示唆。今現在、様々な人種がいるように異核を持つものとクリーチャーの子供という人種の未来が来るのかもしれない。それとも、人類の未来を奪うと言うクリーチャーの新しい略奪行為かもしれない。けど、星名ほのかが単なる農作物という可能性もある。種を植えて、育つのを待って、熟した頃に収穫する。それだけのためかもしれない。肉食獣がそんな回りくどい事するとも思えないけど」
 この際、もうそんなことはどうでもいい。彼女の生い立ちも、クリーチャーの狙いも関係が無い。今ある事実から、細いながらも抜け出す道を照らす一筋の光りに心臓が早鐘を打つ。ベラドンナが日向の考えを読んでおり、先手を打っていたとしてもテーブルマナーを無視するジョーカーは存在する。そのカードを切るためにも、ありったけのチップを積み上げよう。震えて泣いていた日向を見つけ、優しく抱きしめてくれた彼女を守るためにも。
「それで、少年はどうする?」
「分かった。……とりあえず、アンタ達に協力する」
「あら、話の早いこと」
 青臭い答えを出した少年へのものだろうか、どこか嘲笑気味のベラドンナが言う。だが、このまま哂っていられると思うなと心中で毒づいた。
「断ったところで、どうせ人質になるしか道は無いんだ。だったら、ほのかの傍にいることが出来る方を選ぶ」
 最後に笑顔になるべきなのは星名だ。例え己の首だけしか動かなくなろうとも、奴らの足を掬ってやると刻み込む。
「そう、なら契約成立、ね。きちんと星名ほのかをコントロールしておいてよ。まあ、心配ないと思うけど。アナタがいてくれたら、失敗するはずが無いもの」
「随分高く買ってもらってて悪いけど、俺ってそんな役に立つとは思わないぜ」
「そんなこと無いわ。だって、女神の加護があるのですもの」
「ほのか、か」
 何かがあったとしても、彼女の能力を利用しようというのか。自分の考えと同じだと思うと、妙に不愉快だった。
「さて、あとは……これを飲んで頂戴」
 投げ渡された浅黄色のカプセルを受け取る。
「何だよ、これ」
「アナタ今、まともに身体を動かせないでしょ。痛み止めみたいなものよ」
 信用は出来ない。怪しい薬を飲んだが最後、最悪意識を失って全てが終わっている可能性すらある。
「いや俺、ちゃんと痛み止め飲んでるから……」
「飲みなさい」
 短く、鋭く、無機質にベラドンナが促す。躊躇する日向を見て、先ほどまで黙り込んでいた岸峰が一歩踏み出した。逃げ場は無い。逡巡する思考を追い詰めるように、薄ら笑いを浮かべたベラドンナが詰め寄る。
「きちんと契約を成立させるためには、サインが必要でしょ?」
 もう既に、追い込まれる所まで詰められているのだ。後は、崖から飛び降りるのみ。この薬の効果は分からないが、決して日向の有利に働く事は無いだろう。それでも、毒を喰らわば皿まで。向こうとて、こちらを信用していないのは当然。度胸試しか、ちょっとした保険だろうと当たりを付けて、カプセルを飲み込んだ。
 そして、ベラドンナが手の平から異核兵装を取り出した。
「―――ッンガッ!!」
 四肢の感覚が全て抜け落ち、体の芯だけが宙に浮くような錯覚に膝を着く。脳に触覚が備わり、蠢き外へ這い出そうとしている。首筋の動脈が小刻みに痙攣し、しかし脈を肌で感じていると言うより、動いていると言うことしか分からない。体中の部位の一つ一つに、まるで薄い膜を張ったような疎外感がある。複数の他人の身体に自分の意識が宿り、その全てが破壊衝動を抑えようとしていない。気が付くと、地面がまるで生物のように艶めかしく脈動を続け、膨張し、伸縮を繰り返している。内臓が体内で爛れ落ち、粘着性を持った液状として体中を這い回り、また元の位置に戻り、再び落ちた。
「何だ、これ。……麻薬、か?」
「似たようなものだわ。けれど、しばらくすると毒性が変化して一日も経たずに死んでしまうの。延命措置は、その毒素が体内で変異する前にこの薬を飲み続けること。そうすれば、上書きされた毒素が現在の状態を維持しようと機能する代物よ。でも安心して、ちゃんと痛みくらい誤魔化せるから」
 飲まなければ死に、飲んだとしても中毒症状で危険な状態になる。どうあってもベラドンナは日向を使い潰すつもりらしい。騙し絵のように活動する景色の中、きらきらと光る雪あかりだけを強く思う。
「さぁ、それじゃあ始めましょうか! お姫様の奪還を!」
 ベラドンナが指揮棒のようにレイピアを振りかざし、夕暮れの空に仄暗い染みが現れた。


■    ■    ■


 軽すぎて他人のような身体を駆動させ、警報の響く街中を走る。未だ酩酊する頭を振り、学生部隊の校舎を目指した。ベラドンナが呼び出したクリーチャーにより学生部隊は出動し、警戒区域に入る学び舎からは星名も連れ出されるだろう。その混乱に乗じて星名を奪い、ベラドンナ達と合流する。
 日向一人に向かわせるのは不自然に思えたが、星名の暴走に巻き込まれる事を用心しているのだろうか。現在の彼女がどのような状態にあるのかは分からないが、避難所で姿を見たときのように、いきなり襲われないとも限らない。
 もう逃げ出す事は出来ない。汚濁の谷へ飛び降りた先は、ベストを尽くして泳ぎきらなければならない。這い上がる事の出来る陸地が見当たらないのなら、せめて彼女がこれ以上汚れないように抱きかかえるしかないだろう。
 川辺の土手まで来たところで、学生部隊の校舎が姿を現した。囚人移送のマニュアルを思い出す。彼女の場合は犯罪者という危険人物の立場にあり、規律を乱したものとは違った扱いを受けるため最低でも四人は戦闘員が付いていることだろう。その中に城之崎か巳荻がいれば、星名の奪還は絶望的だ。まず、先の戦闘で負傷した巳荻が護衛として除外できることは救いだ。しかし、日向より力の無いものがいたとしても四人と真っ向から戦う訳にもいかない。不意打ちを狙うしかないが、どちらにしろ確率は低い。
 つまり、勝敗の鍵は星名の精神汚染に託されている。ベラドンナも、それを試しているのだろうか。いずれ、ベラドンナや他のものに対しても星名の能力を行使して貰うつもりなので、望むところだと言いたいところだ。
 だが、本当にそれでいいのかと迷う。彼女はどう思うだろう。この考えに、都合よく賛同してくれるだろうか。母を、無関係な五十四名を殺した能力を自ら躊躇い無く使用できるのか。だが、学生部隊に編入したのも、日向を操作したもの彼女の意思だ。許容してくれるだろう。しかし、人の想いを捻じ曲げる力を氾濫させてはいけない。その行為を正さなくてはならないのが、日向の勤めだと思う。最低限、いや、最大限、彼女に能力を行使させない。そして、日向一人の力で対処できない場合に限り、彼女の能力を使用する。
 なんて都合のいい考えだろうかと吐き捨てる。結局、星名に頼ることしか出来ないのではないのか。
 今は、星名の救出だけを考えろと頭を振る。麻薬に侵され、残像を引く景色にも馴れはじめた。
 校舎に視線を定めたとき、急に響いた携帯電話の着信に心臓が跳ねる。教師からの召集命令だろうが、もう応じられることは無い。このままではGPS機能か、それでなくても観測班に補足されてしまう。急がなくてはならない。ポケットから携帯電話を取り出し、投げ捨てようとした時、液晶の文字が目に入った。
「母さん……」
 思わず足が止まり、携帯を見つめた。『力場』を展開し走り続けた所為か、それとも薬の所為か、肩先を写した影が荒く上下している。
「くそぉ……。クソォッ!」
 振りかぶり、川へ向けて携帯電話を投げ捨てた。その放物線が描く、出鱈目に見える軌道から目を離せずにいた。薄暗い西日は、水面を染める事は無く、暗い水底へ何もかも沈んでいく。
 逃げ出すために逃げられない。これは自分の責任だ。星名を助けると言うためにベラドンナに頼り、クリーチャーまで現れた。何の罪も無い人々が犠牲になり、仲間達が血を流す。許して欲しいと思うことさえ許されない。
 今まで、何のために戦っていたのだろう。星名に守ってもらったものを、彼女を助けるために捨てなければならないのは何故だろう。分かりきった答えを前に、そこから逃げ出すように日向は走り出した。


 学生部隊の校門前に辿り着き、様子を窺う。塀を乗り越えることや破壊する事は警報を作動させてしまうため、時間の無い今では正面から入り込むしかない。
 しかし、どうも様子がおかしい。人の気配がほとんど無いのだ。クリーチャーの出現からさほど時間は経っていない。戦闘部隊の避難誘導と、非戦クラスの避難はまだしも、星名の移送までなら充分間に合っていたように思う。この場所が警戒区域にある事を差し引いても、どこか薄ら寒さを感じさせる静けさだ。
 所詮は自分の思い違いだと考え、状況の確認をする。学生部隊の動きが早いことは悪いことではないが、今の日向にとってはマイナスに働く。すでに星名は移送されてしまった。ベラドンナといた場所を中心点に考え、警戒区域に指定されるであろう範囲を推定する。そして、ここからもっとも近い避難所に指定された場所を思い浮かべた。
「行き当たり、ばったりも、いいとこだな」
 それにしても息苦しい。痛みはもうほとんど感じないのだが、体中を暴れまわる動悸を抑えることが出来ない。徐々に正常な判断がつかなくなってくるが、それは果たして薬の所為だけだろうか。
 立ち止まっていてもしょうがないと、この場を離れるため振りかえる。
「どこへ行くの? 日向くん」
 突然かけられた声に首を向けると、門の奥に人影が立っていた。
「藤原さん」
 思わず駆け寄り、その姿を確認する。ベラドンナに脅され、日向を呼び出すように言われた彼女が無事であったことに安堵した。
「大丈夫だった? 怪我とか無い?」
「あたしなら大丈夫。それより、君こそ平気? 顔が青いわよ」
「ああ、大丈夫。ってか、藤原さんはなんでこんなとこにいるんだ?」
「星名さんの移送だよ。あたしが手伝うんだけど、まだ戦闘クラスの人たちが準備に手間取ってるみたい。嫌になるわ」
 すでにいないものと思っていたが、まだ星名はここにいる。これ以上の徒労は避けられそうだ。
「でも、本当によかった。君が無事で」
「何とか逃げ切れたよ。あいつ等もどうにかしたいけど、今はクリーチャー優先だからな。俺も着替えて、みんなと合流してくる」
「ええ、気をつけてね」
 どうして平気な顔でこんなことが言えるのだろう。この事態を招いたのはベラドンナだが、彼女を止めようとせず、あまつさえ加担しているのは日向自身だ。星名ただ一人を救うため、この街を戦場にしてしまった。多数の命を、軽率な判断で天秤にかけるエゴに吐き気が止まらない。今ここにいる藤原も警戒区域にいる以上、常に危険が付きまとう。
 そんな彼女に合わせる顔は、先ほど捨てたはずだ。
 また、頭が痛んだ。
 藤原と別れを告げ、校舎へ向けて走り出した途端、腰を強く叩かれたような感覚につんのめる。振りかえると、藤原が握り締めたナイフで日向を刺していた。非戦クラスが持つ護身用のサバイバルナイフは、『力場』を展開していた日向の皮膚を突き破り、深々と根元まで食い込んでいる。唖然とする日向は、服に付いたゴミを取るような動作で手を伸ばした。
 日向の手から逃れるように藤原はナイフを引き三歩下がった。凶器を持つ両手が小刻みに震え、日向を睨みつけている。
 薬の所為か、痛みは無い。足を伝い地面を染める血も、全てを赤く燃やすような夕陽も、どこか別世界のように歪み、手放された日向は藤原を見つめることしか出来なかった。
 破れた管から、汲み上げられた血液が脈々と押し出されてゆく。いつの間にか、かさついた唇から唾液が落ちた。
「あっ……。えと、何やってんの? 藤原さん」
「君こそ、何やってんの。どうして、あんな奴助けようとするの?」
「助けるって何。どういう意味で」
「全部聞いた! あの女から! なんであんな、みんなを殺したバケモノを助けようとして、良平を守ってくれなかったのッ!」
 それが柏原の名前だということに、一瞬気が付かなかった。
「良平が死んで、どうして君が生きてるの!? 代わりに君が死んでくれればよかったじゃない!」
 ベラドンナに何を吹き込まれたか知らないが藤原は錯乱し、血走った目で日向を捉えている。
 急速に頭が冷えていく。
「邪魔、しないでくれよ」
「するわよ。馬鹿じゃないの。あんな人殺し助けるなんて、アタマおかしいよ? 操られてるから当然なのかな。良平のこと守らないのもおかしいから、ここで死んでよ……!」
 踏み込んでくる藤原が、まるで切り貼りされた映像のように見えた。肌を裂く予感に、自然と身体が動き視界が回る。振動に追従するように、映像が遅れてやってきた。
 気が付くと膝で彼女の胴を押さえ込み、ナイフを持つ手を地面に叩きつけていた。
「ぉ……ごぉ……」
 そして、片方の手が彼女の首を握り締め、七本に見える指先を柔らかな肌に食い込ませている。
 身体を突き上げる破壊衝動を押さえ込むため、両手を握りこむ。彼女は同じ学生部隊で、星名の友人で、柏原の恋人だった人だ。防衛のためとはいえ傷つける事だけは避けたい。焦燥感で頭皮が焼かれるような苛立ちを、歯を食いしばり耐えようとした。何かが外れるような音が聞こえ、藤原の手からナイフが滑り落ちる。硬質さを失った藤原の手首の感触が酷く弾力性を持ち、握っているとなぜだか落ち着いた。
 彼女の股間から広がる染み。口元に溜まる泡。指先に付いたグラウンドの砂。西日が作る深い影。合わない歯の根と、頬を伝う滴は誰のものなのか。
「日向ぁッ!!」
 突然響いた声に、悪戯を咎められたように飛び上がる。藤原は白目を剥き、痙攣を繰り返していた。ナイフを握っていた手首が、親指の方向へ曲がっており、赤く不恰好に腫れあがっている。自分がしたことへの認識が追いつかず、呆然と立ちすくんだ。
 ゆっくりと顔を上げると、制服を着た巳荻百花が、長い黒髪を揺らして、硝子のような瞳で日向を見据えていた。

あきねずみ

Author:あきねずみ

セルフ 貴子同盟

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