鼠の騙し討ち

太刀打できますん

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瀬戸口なんとかさん関連の作品のネタバレ有り。

「SWAN SONG」は結局の所、人間味の有るキャラクターとして書かれていたのは、鍬形拓馬と佐々木柚香くらいだった。主人公含め、他のキャラクターはどこか影絵や群集が逃げ惑うイラストのように別世界の人物として、一個の像として完成し、浮いている。鍬形と柚香にしても、どちらのエンディングでも他人の気持ちを理解なんて出来ずに自分の殻に閉じこもって他人を寄せ付けなかったり他人の中に飛び込んでも何をしたらいいのか悩み途方に暮れたりしており、その形のまま成熟してしまっている。作品自体も、別に人の成長を描いたものでもないし、安易な成長なんてさせず、いつか理解できるようになるよ、とか分かってくれると嬉しいんだけど・・・、みたいな卑屈な感じで終わっている。
そこには人としての進歩なんて無く、歪な形でも完成してしまっていると言うことは、閉じている事と同じで、終わってしまうことが前提のこの作品のことを考えれば当然か。「CARNIVAL」の木村学にしても自分をまとめ上げたために自壊してしまっている。
「キラ☆キラ」という作品にしても、椎野きらりというメインのヒロインが、主人公の世界の枠組みの一歩外を独走しており、完成しているがため、最終的には作品によって殺されている。
きらり生存ルートでも彼女の気持ちは残り続けるかもしれないが、アイドル(偶像)という形で彼女の夢は死んでしまっている。
そんな中で意外だったのが、同一化願望や、それに対する諦めが全面に出ているものとは違った、自己欺瞞ではない前島鹿之助の成長。
自分たちの欲望を正しい形に並べ替えて、大人を排他した少年としての成長をきらりエンド1で、少年である事をやめて自分の意思で動かない世界を認めつつその中で生活する大人としての成長を遂げるきらりエンド2。
きらりエンド1ではまだ鹿之助には成長の余地が残されていることに対し、きらりエンド2では彼は人として完結してしまっている。だからこそきらりエンド2の意味がいきてくるな、とか。
公園のシーンでの、きらりの沈黙から鹿之助の涙を超えたところで、鹿之助はまるで枯れた老人のような印象に変わっている。これから始まる新生活に対し、これまでのような斜に構えた態度で臨み、自己の義務や責任を自覚しているにも限らず見ない振りして最終的に潰れてしまうようなことなどはしておらず、どこか諦念とも違った悟りきった落ち着きがある。

立ち絵を使ったイラストの漫画・アニメ的演出の省略や、常に流され続けるBGMと映像・テキストの融和性よりも、こういった、多角的視点におけるシナリオ構成にテーマ性を含意させる事を成功させたのが、エロゲの持つ最大の功績だと自分は思うわけです。

とかなんとか、瀬戸口なんとかさんの書き下ろしの8ページのためだけに買ったファンブックを読んで気ままに書き殴ってみる。


成長とかもいいけど、水月やさくらむすびのような二人だけの無菌室のように閉鎖的で綺麗な世界を描いているトノイケダイスケ氏の作品も好きなのですが。
「Garden」を早く買わねば。

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あきねずみ

Author:あきねずみ

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