鼠の騙し討ち

太刀打できますん

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「キラ☆キラ」その一


CARNIVALの発売後の未成年の殺人事件。SWAN SONG 発売後の新潟地震。そして今回はこれか・・・
本当に瀬戸口なんとかさんのゲームは呪われているんじゃないのかと。

そんな感じで、残ったきらりルートの感想でも。

前島鹿之助 「君の歌が道になる」

「知ってる? 猫って、異常に我慢強くてね、大けがしても、平気な顔で座ってたりするんだよ。だから、外で飼ってると気がつかないことが多くて。もっと痛そうな顔すれば、助けてあげあれるのにねっ」

きらりが家庭の事情で就職する事になり、その状況から別れようときらりの方から言い出すことに対して鹿之助は当然拒絶し、自分の本心を告げる。
そのことからきらりは、お互いたまにしか本音を言わないところが似ていると言う。

鹿之助は幼少の頃からの家庭環境で、生きることと無くなることを同時にしようと考える。自分は母が連れてきたやっかいもののような存在で、いるだけで気を使わせてしまうし、そのことによって新しく出来た家族にも不愉快な思いをさせることになる。自分がいないほうが世の中上手くいくのではと考えるが、自分だって死にたいわけじゃない。だから、父や母や妹にとって、自分がいてもいなくても変わらないようにしなければならず、普段から一線を敷いている。流行っているテレビを見るときだって、テレビに興味もないのに、人間関係を円滑なものとする努力としてその行為に望む。要するに、心がない。

きらりはその才能のため、昔から周りと浮いている自分を疎い、普通に暮らすという夢を見ている。自分の感情を押さえ込み周りを立てるようにし、また、その押さえ込んだ感情を発露した時に失敗だと感じてしまう。大阪のライブでも、みんなが苦労をしたのは自分の所為と責任を抱え込んでしまう。

つまり、きらりと鹿之助は、自分の思考に基づいて行動を起こすことができないでいる所が二人の似通った部分だときらりが表したのではないかと。

しかし、その似通った部分という結果は、先ほどの言葉通り過程がまったく違うものとなる。
過程が違うとなれば、やはり二人はまったく似ていなくもなる。

鹿之助は好きなものに取り組んだ時、感情を抑えて物事に取り組んでしまうものだから、好きなものに取り組んだ時にでも発生するストレスを押さえ込んでしまい、そのストレスが限界を超えると、テニスの時のように周りの人間の期待や、その期待に応えることが出来なかったという責任感で壊れてしまう。
きらりが病院に運ばれた時も、そこにいたきらりの母が悪いのだと思ったにも関わらず、自分の感情を抑えた為に彼は悲しむ事ができなかった。
自分の感情と他人の迷惑を考えながら生きる鹿之助は、常に自己の抑圧と責任感の板ばさみで身動きが取れなくなる。

しかし、きらりはそのストレスや嫌な事があっても、自分が辛い目にあえば回りは必ず上手くいくという自己犠牲の精神でもって行動していく。きらりから別れを告げる際、鹿之助がきらりと同じような状況で同じような事をいったら、という言葉に対し、彼女は怒るよう、極端な考えに囚われている。その自己犠牲で火事の際も家族を助け死ぬ間際も、周りに迷惑をかけたことを詫びている。

「みんな、ごめんなさい。……お願い、あたしを、許してね……」

だが、彼女は裏切られただけだ。

僕は、自分が再び自分に戻ってゆくのを感じていた。
結局、きらりの目を通さなければ、僕には何も美しくは見えない。


そうして彼は、また動く事の出来ない日々を送る事になる。

しかし、時間と言うのは本当に人を嘲笑うように、その存在のあり方さえ移り変えてしまう。
時間だけではなく、新しい出会いも鹿之助に自分の生き方に疑問を持たせる。
鹿之助が過去を引きずるように生きてきたよう、可能性が在るのにバンドに依存する事になるアキを見て、彼女はこのままでは駄目なんだと悟ってしまう事により、自分の在り方も見つめなおす事になる。

「キミは今ドラマの中にいるんだ。今の君に必要なのは、正しい合理的な結論を得ることではなくて、全力で泣いたり笑ったりすることなのだよ」

いい加減、過去を拭い去り別れを告げ、新しい生活をしなくてはならないと鹿之助は感じ始めるが、彼に必要なのは拭い去る事や別れという終わりではなく、きらりが残した思いを持っていくこと。

どうして、二度と戻らないんだ?
こんなの、受け入れられるはずがない。そんなの、出来るはずないじゃないか。どうして僕はこんなひどいものと仲良くしようとしていたんだ?


きらりの幻覚というものまで持ち出し、鹿之助は自分を見つめる事で、あの時、感情を抑圧せずに自分がしたかったことをしたいがままにし、これから生きていく、生きていくしかない一瞬一瞬の人生を大切にしていくことで、きらりがいなくても大丈夫になってしまう。
本当に残酷な生き方だが、そうしないと人は生きてはいけないんじゃないかと思う。
けれども、やっぱりその悲劇に浸って生きていくことのほうが、好ましく映る。それが、永遠にきらりを愛す行為なのだと崇高に感じてしまう。

「あれはね、シドが嫌いなんじゃなくて、まつわる物語が気に入らないんだよ。それを賛美する連中も嫌いだな。悲しくなるように自分で勝手に作って、自分で勝手に陶酔してんだ。そんなの、くそっくらえだよな」
「瞬間が全てなんだ。本人はそんなに悪い人じゃないと思うけど、くだらないメロドラマはごめんだ。人生を馬鹿にしてやがる」
「俺は断然否定するね。ドラマなんか、くだらないよ」


そう、馬鹿にしてる。悲劇なんて人間の力じゃどうしようもない事を持ってきて、己の非力さを痛感して打ちひしがれている様を眺めては、神様って奴はニヤニヤとほくそ笑んでやがるんだ。けどそれだけじゃ人は終われない。ドラマが終わったってどうしたって人生は続いていくし、みんなが悲しんでハイ終わりって、その人の人生にはその悲しみ以上の事はないかもしれないが、変わってしまったところにも、その変わった所での楽しい事があるはずなんだ。それに、その悲しみ以上のことがないなんて決め付けていたら、この先なにもやってゆけない。現実が思い通りにいかなくても、その一瞬一瞬に自分の感情の全てを詰め込んでぶつけていけばいい。


椎野きらり 「世の中って 難しい」 そう言ったね

「本当に? ごまかさないで、素直に言ってほしい。このままじゃ俺はどうしたらいいのかわからない。怖くてしかたないんだ。本当の声が聞きたいんだよ」

このきらり生存ルートで、鹿之助は能動的にきらりを救おうとする。いつも感情を抑えている鹿之助にも関わらず、なぜこんなにもきらりの為に動く事が出来たのか。
やはりそれは、きらりの家庭の事情を知ったときに沸き起こった、きらりの父への反発。パンクの根源となる、怒りという感情。
それまで彼は、世の中って言う漠然としたものと仲良くして行こうと考えるが、今回に限り明確な敵が、排除しなければならない、と言う解決法を持って存在していたから。悲劇だと思っていたきらりの状況が、実は社会的な手段を用いればそれで丸く収まるという事を知り、それは悲劇でもなんでもないイージーな状況にも関わらず、きらりの父が全てをドラマにしようとしている。
そして遂にきらりの父を見殺しにするという行動に出るが、そのことについて鹿之助はまったく罪悪感など無く、きらりの大切な家族を死なせてしまい、きらりの「家族と幸せになる」という望みを裏切った事にのみ罪の意識を持ち、また、それらを幸せを壊した負い目から事実を覆い隠してしまう。

「道頓堀は汚いって言うけれど、夜の水面はネオンを反射して綺麗だね」
「そうだね。表面だけピカピカして綺麗だなんて、まるで人間社会みたいだ」
「でも、本当にこんなにたくさん光ってるんなら、人間社会もおもしろいねっ」


そしてきらりの父がいなくなるのだが、そのことに対してきらりは疑問に思う。父親が死んだ途端なにもかもが上手くいくことに違和感を覚えていたのだが、鹿之助にその事実を告げられることで理解する。
他人が傷つくくらいなら自分がその全ての苦しみを抱え込もうと生きてきたきらりだが、そのとき鹿之助が行った事と言うのは、今まで自分が他人のためとしてきた自己犠牲そのものだ。そしてその自己犠牲で、周りの人が不幸や傷を残している事を知る、というか傷ついているのがきらり自身だからだろうか。
何もかもが巧くいくようなことなんて無く、それにはやはり誰かの犠牲なり裏がある。今までの自分の自己犠牲という考え方では、解決できない問題がここにはあり、

「世の中って、むつかしいね」

ということだろうか。
そして彼女の導き出した答えと言うのが、やはり自分の夢や希望を諦め、他人の為に歌を歌うという事。
それは、今までの彼女が持ってきた自分が苦しめばそれでいい、と言った「身を引く」というだけではなく、その上で誰かを「守って自分の気持ちを形にしていきたい」という、「自己犠牲」から「博愛」への転換。

「あたしね、もし歌手になれたら、みんなが元気になるような歌が歌いたいな」


ここからは単なる寝言たわ言。

やっと僕は、自分の力で生きられる。
これから、色々なものを返していかなくてはいけない。
本当に、このときまでが、とても長かった。


自分も社会人になる時にこういったことを思っていたなぁと。(鹿之助の感慨とかは無視して、言葉の形だけを捉えて)
大人になんてなりたくなくて、夢なんてものを整った形で手に入れたくて、駄々ばかり捏ねて、いろんな人に迷惑をかけて、それでも平気なフリして、自分の幸せの為に頑張ってきたつもりだけれど、そんなんじゃ世の中の誰も許してくれなかった。そもそも世の中の誰も自分になんか興味なく、それがとても寂しかったから憤りを内側に溜め込むだけで、それでも漏れ出してしまった感情で周囲を否定していた。何も出来なかったのと同じだ。けど、自分と同じような事をしている人を見ると、ああこれじゃ駄目なんだ、と悟ってしまう。世の中に溶け込むことも巧く付き合うことも出来そうに無いが、それを否定しているだけじゃなく、せめて周りの人へ恩を報いていかなきゃなと。そうしたら喜んでくれたんだ。本当に薄暗くて、他人の顔なんて見えなかったけど、難しいけど慣れればどうってこと無い。人に裏切られて傷ついたと嘆いていて、他人なんて信用できなかったけど、それはよく見てなかったからだ。よく見れば、信用するとかそんな段階じゃない事くらい、いやでも気が付くはずなんだ。
自分では、「他人を見る目が無い」なんて思ってたけど、なんだ、当たり前じゃないか。だって自分の事しか見てなかったじゃないか。
受け入れていかなきゃいけない。今まで自分がしてきた事や、これから生きていく場所の事を。
命をかけて、この、くそったれな世界に、精一杯の愛をこめて。

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