鼠の騙し討ち

太刀打できますん

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「もしも明日が晴れならば」クリアしました。

えっと、どうしよう? 書くことがないぞ?
私は、ゲームをクリアしたら他の方の感想を読み、絶賛している方や酷評している方がなぜそう思ったのかを考えつつ、自分の感想を固めていくスタイルを取っているのですが、他の方の感想を読んで書くことがなくなってしまったぞ?状態。
間抜けにもほどがあります。

ここで感銘を受けた感想を紹介して(とりあえず独り言以外の何かさんとSkyerさん、もう一つ。これだけは必読だ!)これさえ読めば君も明日から「もしらば」マスターだぜっ! と親指立てて白い歯を煌かせ自分からは何も言う事は無いな、と言ってのける衝動に駆られたのですが・・・手遅れかっ!!
(問題ありましたら即刻リンク消しますので)

プレイ日記と言うスタイルにすればよかったと激しく後悔しつつ、だらだらと感想をば。



「不遇だよぉ」
と言うつばささんの意見も分かりますが、言うまでも無く一番不遇なのはお姉さん。

普通、死者が生者に話しかけることなど出来ない。
ヒロイン野乃崎明穂は序盤で病気の末、死を迎えます。しかし、幽霊という形になり主人公一樹の前に現れ生前のように彼と妹のつばさとの生活を始めます。
この作品で明穂が明穂たる存在として立つ位置というのは、死なのです。死は無なのか? と言われれば、それは違う。死と言う“存在”はそこに在り、生者に触れることが出来る。死者が生きていた頃にかけられた言葉や、起こった出来事は生者の将来に“触れて”くる。生者と死者は同時に存在し、かつ存在しないことはありえない。と、どこかで聞いたような言葉でお茶を濁しつつ。
明穂はあくまで存在でしかなく、また、生者が思考の末に生み出した「私」でもない、他者という死者なのです。
触れることの出来る死者と言うからには、明穂は“行動”し、行動するからには他者である明穂にも時間が流れます。時間が流れるという事は、死もそこに存在します。存在としての死、それは、生者から見れば明穂は存在し、明穂から見れば明穂は実存した、ということ。存在としての存在者ってやつ? よく分からないけれど。夏の思い出だった明穂はその短い期間を他者と取り替えることの出来ない、死者としての立場から生者の幸せを望みます。
そこで現れるのが、生者が死者に残す、一樹がもっと明穂と居たい、という未練。明穂ルートで一樹が最初に取った行動は間違えで明穂との破滅の道を辿ってしまいますが、しかし、その未練を利己的なものではなく生者の立場からの死者の幸せを望んだものにしたからこそ、彼は彼女を遠ざけ、彼は彼女の存在を認め、彼は彼女を常に傍にいる実存として認め、二人は一つになれたのではないのでしょうか?
死者と言う存在でありながら実存し彼の幸せを望んだ彼女と、その現実を受け入れ互いの幸せを望んだ彼が幸せになる。それだけの物語なんだと思います。

それは、つまり―――

ロリ明穂が存在した理由と言うのは

我々が望んだからなんdうわなにをするやめろはなせ





もしも明日(形而上でしか捉えることの出来ない存在)が晴れ(死を迎えることの出来る形で実存した)ならば
ってことで書き始めたのに、なぜこんなことに・・・
似非哲学をひけらかして、まったく赤面モノですな。

今回意図的に他のヒロインについては他の方の感想と駄々被りになるので触れませんでしたけれど、やっぱり明穂さんが輝いていたのは他のヒロインルートでの立ち居地でしたよねぇ。

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