鼠の騙し討ち

太刀打できますん

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エイプリールフールに何かしようと言って何もしなかったので、何かしようと言った事自体が虚言でしたってオチで。どうか。

さて、定時に飄々とした態度で帰ろうとしたところ、先輩がこちらを見つけて一言

「日付が変わるまでが仕事だよ」

と言い放ちやがりました。名言だと思います。
まあ、そんなのが毎日続くわけでも無いので体のほうは大丈夫です。きっと。

自分の仕事は辛い、と誰しもが思うでしょう(例外の話は面倒臭いので省略)。その通りだと思います。働いている人は誰だって偉いのだと感じる社会人2年目の鼠です。

誰でも偉いとか言いましたがその中でも高低差は必ず存在します。密度や待遇や給与や周りの関係等々言い出したら限がありませんが、それは当然のように明確な差を持って人に図太く圧し掛かっています。これは仕事だけに関わらず人生経験などにも言えるかなと。
例えば、テレビなどで過酷な人生を送った人の経験談を聞いたり見たりして多くの人が、自分の人生なんて、と言うかもしれません。それだけの凄惨な人生模様を見せ付けられれば自分は楽な人生を送っていると感じ落ち込んだとしても、それは至極真っ当な意見でだからこそ多くの人は人間というものは生きているだけでは価値は無いと言います。
けれども、生きて何かをしていても価値が無い人と言うのも存在します。高低差が必ず存在するように、ただ生きているだけで価値のある人も存在するでしょう。
人は誰しも平等だ、なんておっしゃっている人もいますがそれは無い。絶対無い。っていう私の主観はさておき(そもそも意味を捉え違えてますよ私)、その平等を唱える人にとっては全ての人々は同じような有象無象の集合体にでも見えるのでしょうか? まあそれは言葉遊びですが。その平等にだって人種とか自己満足という前提条件が揃わなければいけませんよね。多分。
その高低差なんてものは、主観または客観と言う他人の主観で決める事だと思います。同じ温度の湯でも、室内で激しい運動をしてきた人と雪道を歩いてきた人とでは感じる温度が違うように。

私は親しくした人から、冷たくなった、とか、前とは違う、といった事を言われる覚えが結構あります。しかし、私はその人に対する温度を変えたつもりは無くマイペースっぷりを発揮しているのですけれど、相手からしてみればこちらの体感温度に会わせろよ、と言う事なのでしょうか。どうもそういったことが苦手でありんす。空気の読めないB型です。
私は少し知り合った人や優しくしてくれた人を平気で好きになりますが、そこに高低差があまり無いような感じがします。だからこそ逆に自分は同じ温度でしか居られないし、そもそも何もかもどうでもいいや、とか思っている時点でダメなのかなぁと。どうでもいいんですけどね。
私は同じ位置に居て他人はそこに寄り道して行く、自分はただの通過点なのかしらん、とか思います。中ボスみたいに、ファーストコンタクトは負けるけど装備を整えるだけで勝てるような感じ。

なにか、こう、結果の先に何も無いよう感じるとでも言いましょうか。目的のために頑張れるけど結果を手に入れた瞬間、その宝石みたいな結果がゴミクズ同然に見えてしまうような感覚が常に付きまとうようで何もする気が起きないようでいて、その何も無くなってしまったと言う飢えを無くすために次のものに尻の軽い軽薄な態度で臨んでみることもあり、でも捨てたものは捨てた瞬間に勿体無く思う。極端なんでしょね。

もういいや、めんどい、寝る。

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あきねずみ

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